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この加橋のアルバムでプロデュースのクレジットがある川添象多郎は、著名人とも関わりの深いレストラン「キャンティ」(タイガースの衣裳をデザインしたブティック「ベビー・ドール」も)のオーナー・川添浩史の息子・川添象郎であるが、実質的には浩史が、フランスでポップ・ミュージックのレーベル「バークレー・レコード」を経営する友人エディ・バークレーにレコーディングの機会を与えてくれるように頼み込んだらしい(野地秩嘉 『キャンティ物語』より)。 当然ながら、それに掛かる費用も浩史が持ったと思われる。 また、このアルバムの作家も、その「キャンティ」の人脈で占められており、安井かずみ、村井邦彦、山上路夫と、タイガースのレコードに関わっていた面々はもちろん、かまやつひろし(当時はザ・スパイダースのメンバー)も参加し、そのスパイダースのファッションや音楽のアドヴァイザー的存在でもあったレーサー・故 福沢幸雄の妹・福沢ユミの詩も取り上げられている。 「キャンティ」には、渡辺プロの副社長・渡辺美佐も親しく出入りしていたようだが、加橋の脱退への関わりは定かではない。 だが、ある日「キャンティ」で出会って挨拶した加橋に「あなた誰?」と言い放ったという逸話があるという。 もちろんデビュー前などではなく 「花の首飾り」「廃虚の鳩」以後のことなのだが。 その真偽はともかくも、美佐が性格的に加橋を気に入っていたということは無いと思われる。 もちろん、タイガースで気に入っていたのは沢田研二ただ1人であろう。 一方、「キャンティ」の(ブティック「ベビー・ドール」のデザイナーでもあった)川添梶子夫人と加橋は深い関係にあったとも言われるが、そこから以下のような構図が見えて来るような気がする。 梶子夫人の方が半年ほど早いが、美佐とは同じ1928年生まれ、この1969年には41歳(ちなみに、加橋、沢田は21〜22歳だった)。 2人は、文化を深く理解でき、また男性顔負けの仕事もこなすという、自由で平和な戦後日本の理想像を体現しているような女性達で、性格的なものは異なるにしても、やはりお互いライバル的な意識はあったと思われる。 それが、この時に出現したタイガースの、性格の異なった2人の若者の具体的な音楽活動に投影されたのではないだろうか。 加橋は、自分達のバンドであったタイガースをミス・リードするかのような渡辺プロの方針、その根底にあるはずの美佐の沢田への愛情に反発して、タイガースの解散を目論み、自らの脱退を最終的に決意したと思われるのだが、それに至るまでには梶子夫人の存在が大きな精神的支柱になっていたに違いない。 おそらく、森本太郎の日記に「トッポが退団したいと言っていることを聞いた」という記述がある1968年5月頃には、その萌芽はあったのだろう。 だが、加橋がリード・ヴォーカルをとった「花の首飾り」が大ヒットしている時期にそれを認めるわけにはいかず、渡辺プロ側は対応策というか懐柔案として、メンバー自作曲も含むアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』の制作を進めたという側面もあったのかもしれない。 しかし、ジュリー色の薄い『ヒューマン・ルネッサンス』を、次へのステップと見るか、これで完結と捉えるかで、加橋と渡辺プロの見解は食い違い、加橋は退団へ再び傾く。 そして「キャンティ」人脈の中で話し合う内に、川添浩史オーナーの知己のルートがあるということで、パリでのソロ・レコーディングというプランが形を成してきたのではないか。 前述の森本太郎日記では続けて同年12月下旬に「トッポが1月いっぱいで退団したいということを聞いた」とあるが、その時点では 4月のパリ・レコーディングがほとんど決まっていたと考えると、3月脱退、4月レコーディングという、いささか無理のある日程に対する疑問が解消するように思われる。 この後、森本太郎日記には加橋退団に関するミーティングが重ねられたと思われる記述が見られるが、それは「Xデー」をギリギリ2月下旬〜3月上旬と定めた上での、加橋本人やメンバーはもちろん、渡辺プロ総掛かりでの、加橋失踪→除名→パリ行き→ソロ・レコーディング(タイガース側では、→シロー加入→新生タイガース誕生、ってこと)というシナリオだったとしたならば、実に面白いのだが…。 ま、渡辺プロ側の関わり具合はともかく、これは「キャンティ」側では周知の計画だったろうと思われるが、気になるのはレコーディングから発売までの間隔がやけに長いことだ。 4月にレコーディングが済んでいるはずなのに、発売は12月末。 加橋が主演格で出演した話題の舞台ミュージカル『ヘアー』の12月からの上演日程に合わせるというプロモーションだったとしても、先の長い話で、ちょっと無理がある。 だから、それは当時の芸能界を牛耳っていた大帝国・渡辺プロの圧力で、ジュリーのソロ・アルバムの前には発売させなかったのさ、というような当り前な解釈も出来ようが、 美佐と梶子夫人は良きライバルでもあり、また朋友でもあるような関係だったのだろうから、むしろ筆者は次のように考えたい。 すなわち、これは足の引っ張り合いのような低次元の勝負だったのではなく、梶子夫人+加橋側は、来たるべき美佐+沢田のソロ・アルバムを同じ土俵で迎え撃たんと、それまでの間、タップリと余裕を持って待ち構えていたのである、と。 いや、さらに進んで、待っていてあげるから早く作りなさいな、と煽っていたのかも。 …そうだったならば、とても麗しいんだけどね。 が、いずれにしても、すでに加橋が完成させていたソロ・アルバムに刺激を受けて、または対抗するべく、美佐が自分の沢田研二にソロ・アルバムを作らせる、という流れになったとは言えるのではないだろうか。 とはいえ、おそらく沢田自身はソロ・アルバムには消極的だったと思う。 アルバム『ジュリー』の付録ポスターにタイガースのメンバーがかなりフィーチャーされているデザインはタイガース・ファンに対する渡辺プロの言い訳とも思えるが、ジュリー本人のせめてもの抵抗だったのかもしれない。 また、渡辺プロで仕事していたとはいえ、「キャンティ」人脈でもある安井かずみと村井邦彦のコンビで全曲構成するという内容は、前述のように、発売時期のみならず、内容的にもハンディが無いようにと、「キャンティ」側が敵に塩を送ったと言うべきか。 それとも、美佐側が安井・村井コンビを力ずくで奪って、それを誇示するために全部を書かせた、ってな風に考えた方が分かり易いかなあ、やっぱり。 以上、男女間のプライベートな感情にばかり興味があるわけではないのですが、タイガース在籍中に制作された沢田研二のソロ・アルバム『ジュリー』と、タイガースを脱退した加橋かつみの『パリ 1969』に関しては、その音楽的な必然性以上に、ある「意地」で世に出た、似ているような似ていないような「双子」と思えてならないのですね。 さらには、それを生んだのは 2人の女性だったとはいえ、彼女達の熱い想いを知りつつも、その結晶の誕生を実質的には推し進めたはずの影の男 2人の存在が、目立たないからこそ、やけに気になります。 |
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