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タイトル/ジャケット |
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ジュリー/沢田研二 Julie
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[LP] 1969年12月15日発売 [発売日では、12月 5日となっている資料もある] レーベル:ポリドール(発売:日本グラモフォン) レコード番号:MP-1465(以前のSMPで始まる番号は使われなくなった) 価格:\1750 見開きジャケット。 デザインは凝っており、沢田研二の肖像写真が印刷された透明ビニール・シートが、ジャケット外側全面と内側の一部まで被さっている仕様。 LP6面サイズの大型カラー・ポスター付。 ジャケット・デザイン担当者のクレジットは無いが、廣野展生が手掛けたとのこと。 当時タイガースのマネージャーだった中井國二の「何か変わったこと出来ないか」との言葉を受けてデザインしたものらしい。 また、付録ポスターの写真は夢の島で撮影されたものだが、これには廣野のテイストが反映しているようだ(『レコード・コレクターズ』誌 2002年7月号の記事「ジャケット・デザイン・イン・ジャパン」より)
1968年1月4日に正式スタートしていた『オリジナル・コンフィデンス(オリコン)』誌のシングル・レコードのチャートに続いて、LPチャートが1970年 1月 5日付でスタート。 このアルバムは、その最初の週で2位にランクイン。 それが、そのまま最高ランクとなった。 ランクイン中の売り上げ枚数は69,000枚。 (ちなみに、その時の1位は『花と涙/森進一のすべて』だが、森進一のLPはベスト10内に何と4枚もある。 当時のLP売り上げでは演歌や洋楽が強かったようだ。 なお、タイガースのLPがチャートに登場するのは1970年9月発売のベスト盤『アゲイン』が初めてなので、この沢田研二のソロ・アルバムの他、加橋かつみの『パリ 1969』やサリー&シローの『トラ 70619』の方が先にランクインしていたことになる) また、以下の再プレスがある。 1971年11月頃〜 上記と同じだが、レコード会社名が「ポリドール」に変更されたもの *現品確認済(下記写真参照)
[以下は規格が異なる再発売] [カセット] 1979年 7月25日 アポロン 番号:KSF1184 \2500 現品は手元にありませんが、カタログの写真等によれば、パッケージは別デザイン。 なお、これはカセットとしても再発売で、これ以前には『ジュリーの魅力』というタイトルでカセット、および8トラック・カートリッジ・テープも発売されていたらしい。 パッケージも、それぞれ別デザインだったようだ。 [LP] 1979年12月21日 ポリドール 番号:MR 3222 \2500 帯は、この再発用のデザイン。 ジャケットも上記オリジナル盤とは異なり、顔が直接印刷されているシングル・ジャケットに変更。 裏面はデザイン違い。 また、LPサイズのカラー・ポートレート(裏側に歌詩印刷)付。 [以下、CDでの再発売] [CD] 1991年 4月26日 東芝EMI (レーベル:EAST WORLD) 番号:TOCT-6068 税込\2500 1991年 2月〜4月に、デビュー25周年記念として、ライヴ盤を除くポリドール時代のオリジナル・アルバム20枚と当初はカセットのみのリリースだった『ジュリー・ソング・カレンダー』が、沢田研二が移籍していた先のレコード会社である東芝EMI にて、まとめてCD化されたが、その1枚として発売(なお発売当時、5枚購入で卓上ポートレート、10枚でオリジナルポーチ、21枚で収納用カートンケースがプレゼントされるキャンペーンが行なわれた)。 パッケージ・デザインは再発LP盤仕様で、裏側もそのLPの裏面写真、付録のカラー・ポートレート写真もブックレット内に使用されている。 また、もともと無かったのだが、CD用にもライナーは書かれなかった。 [CD] 1996年11月20日 東芝EMI (レーベル:EAST WORLD) 番号:TOCT-9561 税込\2000 上記の5年後に、今度はデビュー30周年記念として、上記の21枚+東芝EMI 移籍以降のオリジナル・アルバム11枚が一気に低価格で再発売された(この時もキャンペーンが実施され、10枚購入でライヴ音源セレクションのCD、20枚でシングルB面コレクションの2枚組CDがプレゼントされたが、これらのCDは今に至るまで市販されていない⇒その後、B面コレクションの方は3枚組CD「SIDE-B COLLECTION」として、2003年暮〜2004年初頭辺りに本人の事務所より商品化された)。 当時のタイガース活動中にリリースされた沢田研二のソロ・アルバムはこれだけだが、1970年に『ロックカクテル』というカセット(のみ)がリリースされたとの情報がある。 当方では現品は未確認だが、「最後の恋」「涙のくちづけ」等、(欧米ポップスのカヴァーばかり?)全10曲が収録されているらしい。 |
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レコーディング・データ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
森本太郎の日記には、「1969年12月 2日〜10日
ジュリーの単独LP『ジュリー』のレコーディング」との記述があるが、発売日からして、これは明らかな間違い、もしくはミスプリント。 おそらく12月ではなく、10月だったと思われる。 |
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曲の内容に関するデータ/コメント | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「君を許す」は、このアルバム発売の直前にリリースされたタイガースとしてのシングルA面に同テイクが収録されていた(B面は「ラヴ・ラヴ・ラヴ」)。 「誰もとめはしない」は、タイガースとしてのテイク(ヴォーカルも演奏も異なる)が1969年10月18日に録音されており、CD『LEGEND OF THE TIGERS』に発掘収録されている。 これは「ラヴ・ラヴ・ラヴ」と同日の録音なので、おそらくシングル候補になっていたのだろうと思われるが、結果的には、上記のように「君を許す」がシングルとなった。 「ひとりぼっちのバラード」は、沢田研二のライヴ・アルバム『ジュリーVII The 3rd リサイタル(1973年/中野サンプラザ)』で唄われている。 このアルバムの全作詩を担当した安井かずみとアレンジャーの東海林修は、後にソロ・シンガーとなった沢田研二の数々のヒット曲の作詩とアレンジを手掛けることになる。 ソロ・アルバム第2作の『Julie II 』は全曲のアレンジを東海林修が担当し、ここからは重要なヒット曲「許されない愛」が生まれている。 また、その後のメガヒット・シングル「危険なふたり」は安井かずみ作詩で、やはり東海林修アレンジだった。 だが、『ヒューマン・ルネッサンス』からタイガース・プロジェクトに加わり、すぎやまこういちと入れ替わるようにしてタイガースの音楽監督の座にあった(と言っていい)村井邦彦だけは、全作曲を手掛けたこのアルバムを最後にタイガースのレコードには関わらなくなる(1970年2月に発売されたサリー&シローのアルバム『トラ 70619』の1曲では編曲者としてクレジットされているが)。 「美しい愛の掟」以降、「嘆き」「君を許す/ラヴ・ラヴ・ラヴ」のシングルAB面や明治製菓キャンペーンでの全曲アレンジ、そして映画 『ハーイ!ロンドン』の音楽も担当していたにもかかわらず、この辺りで何か決定的な要因があり、急速に村井邦彦離れが演じられたようなのだが。 はたして、このアルバムは、そうした成り行きとなる原因だったのか、それとも、もともと最後の仕事という形での依頼だったのだろうか…。 |
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