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[欄外コラム(16)] 「あなたとタイガースのクリスマス」で締め括った1969年の状況
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1969年12月下旬、ファンクラブ会員に頒布されたソノシート「あなたとタイガースのクリスマス」(以下、例によって筆者の主観ですが、ご参考までに)

1969年は、加橋かつみから岸部シローへの、いささか不透明と言える経緯によるメンバー・チェンジを始め、タイガースにとっては、置かれている環境が前年までとは大きく変わった年だったと思えるが、またGS界全体としても絶頂期を過ぎたのかもしれないという危機感が大いに感じられるようになっていた時期のようだ。

そうした中で、森本太郎の日記によれば、7月13日にGSの組織「SPA」の第1回総会が開かれたという。 これは、各プロダクションに関わりなくGSを中心とするメンバーが集まったもので、会社に対する労働者としての組合のようなものだったと思われるが、そこでGSの稼ぎ頭であるタイガースこそが最初に会社に要求すべしという決議でもされたのを受けてか、またはその場に参加して目覚めたメンバーによる自主的行動だったのか、同15日の日記で「会社にボーナスを要求したが、結果的にはダメだった」とわざわざ公にされているのが目を引く。

もちろん、これは単にカネをもっと寄こせ!ということではなく、あるデモンストレーションだったはずだ。 前記のように組合の代表というような「しがらみ」があったのかもしれないが、あくまでメンバー個人個人としてのタイガースの仕事に対する異議申し立てだったはず、と筆者は考える。
メンバーに支払われるカネは当然に労働とその成果に見合ったものであるべきだろうが、その仕事が自主的なもので楽しく充実していたならば、まだ若かったこともあるし、生活の糧としてのもの以上にカネに関して主張することは無かったと思われるのだ(筆者の実感としては、何らかの制約があって仕事の結果が自分の求めた形にならなかった時ほど、せめてカネだけはガッチリいただいておきたいという気持ちになるもので、逆に仕事そのものに満足した時には、カネにはあまりこだわらないものなのですね。 …ま、あくまで「気持ち」の問題ですが)。

しかし、この年のタイガースのメンバーには、アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』を世に問おうとしていた前年の暮ほどの高揚感も夢も希望も無かったのではないだろうか。
だからこそカネの問題を前面に出したのだろうが、おそらく会社からは「バンドだから一人ひとりにすると安く思えるが、一人のタレントだと考えればトップクラスの収入だ」(岸部シロー著『ザ・タイガースと呼ばれた男たち』より)というように説得されたのだろう。

また、もう1つ気に掛かるのは、加橋脱退時に録音していたというタイガースのアルバムが、ついに陽の目を見なかったことだ。 これには後にCD『LEGEND OF THE TIGERS』で発掘された「坊や祈っておくれ」(作詩=岸部修三、作曲=森本太郎)のようなメンバー自作曲も含まれ、また未発表のままだが、ポリドールの録音日誌によれば「悪魔の子供」「J」(仮題)「私のエンジェル」「さざ波」といった曲が準備されていた記述が見られるし、タイトルは不明だがシングル「美しき愛の掟」「風は知らない」の時に録音されたはずのもう1曲、そしてシングル「嘆き」「はだしで」の時に録音された「LOVIN' LIFE」等、当時シングル・レコード化された曲も含むと10曲ほどは軽く揃えられるので、LPをリリースする気になれば出来たはずなのだ。
もちろん、これらの内には加橋のオリジナル曲もあり(それはおそらく加橋のLP『パリ 1969』に収録されていると思われるが)、その1〜2曲程度は使えないにしても、他の曲では加橋が録音に参加していても、ヴォーカル・トラックさえ差し替えれば済んだはずなのだが。

これは加橋脱退以前のプロジェクトだったので、加橋が抜けた後のタイガースのメンバーはそれらをすべて捨て去りたかった、などと考えることも可能だが、それでは建て前すぎる。
おそらく『ヒューマン・ルネッサンス』以上に自作曲を含んでいたはずのニュー・アルバムを、当然ながらメンバーはリリースしたかったのだが、むしろ会社側が見せしめ的にストップを掛けて来たとも考えられるのではないか。
もともと、その新LPは『ヒューマン・ルネッサンス』の成果を前提として、さらにメンバー(ジュリー以外?)の意向を大いに取り入れたものだったと思えるのだが、それは会社にとっては望ましくない志向だったのかもしれない。 しかし、加橋脱退は避けたい会社側が加橋を始めとするメンバーに正面切って反対は出来ないまま、とりあえずレコーディングに入っていたにもかかわらず、その時期に加橋が失踪という直接行動に出たことで、結果的に会社は二重に損害を受けることになった。
ひょっとすると渡辺プロ内部では、残ったメンバーは「事件の被害者側」では無く、「共同責任のある加害者側」として糾弾されるような立場にあったのかもしれない。 だからこそ、マスコミ対策ということでなくとも、加橋脱退の真実に関しては、メンバーは黙らざるを得なかったのではないだろうか。 …こうした考えは筆者も今までは持ったことが無かったが、そんな気がして来た。

いずれにしても、前年暮、『ヒューマン・ルネッサンス』とシングル「青い鳥」のヒットによって生れたはずのメンバーの大いなる自尊心は、加橋の脱退を機に、一気に萎んでしまったように思える。 とにかく、この年にメンバーの自作曲は何も世に出なかった。 メンバーに出来たのは自作の未レコード化曲「坊や祈っておくれ」(または「坊や歌っておくれ」とも呼ばれる)をステージで唄い続けることくらいだったのかもしれない。
そして、辞めた加橋のソロ・アルバム完成の話が聞こえて来たり、またジュリー単独によるアルバムの企画が現実化した頃になって、メンバーは何らかの形でファンに向かってタイガースとしての自らをアピールしたいと切実に思ったはずで、かのビートルズがファンクラブ会員にクリスマス・プレゼントとしてプライベートなレコードを贈っていたことに倣って、そうしたレコードをタイガースも作ることを会社に訴えたのではないだろうか。 そして「あなたとタイガースのクリスマス」が制作されることになった。

とにかくメンバーのオリジナル曲を収録するのが基本ということで「あわて者のサンタ」が作られ、演奏もメンバーによってなされたのだろうが、そうなると、このシンプルなパッケージも、メンバーの意志だったように思えて来る。 むしろ会社は、良い企画だからと制作費はタイアップでどこからか宣伝費名目で取って来て、豪華仕様で販売することを考えそうだ。
これは、1969年11月に開催された東京浅草・国際劇場での「ザ・タイガース・ショウ」プログラム しかし、メンバーはそうした企画意図ではないと、あくまでプライベート的な仕様にこだわったのかもしれない。 販売ではなくプレゼントするものなので予算は掛けられなかったという事情もあったにしても、キレイなポートレートを使ったパッケージではなく、あくまで内容を聴いて欲しいのだ、と。 トーク部分の言い間違い等もそのままでリリースしたのも、着飾らない普段着のままの自分たちを見て欲しいという気持ちだったのかも。
そうだとしたならば、渡辺プロのファンクラブ会報『ヤング』での告知が小さくさりげなかったのも、渡辺プロ側の消極的な姿勢の反映では無かったのかも知れませんね。

さて、その思いがファンに届いたのかどうか、申し込みは予想以上に殺到したようで、『ヤング』の翌年1月号では発送が遅れた旨のお詫びが掲載されていた。
そうしたファンの変わらぬ熱意と、自分たちの現実の仕事との乖離に(おそらく)悩みながらも、メンバーは黄金の60年代に別れを告げ、1970年を迎えることになる。
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