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[欄外コラム(11)] 「青い鳥」シングル・カットの経緯 [欄外コラム] のINDEXへ
リアルタイムでのタイガースの全レコード・リリース状況をチェックすると、シングルもLPも買うような熱心なファンにとって曲のダブリが無いように配慮された形跡が認められる。
(それは、ビートルズの英国でのリリースのポリシーに見習ったとも思えるのだが、それについては後述

また、タイガースのレコードは、当時シングルもLPも(番号をマイナーチェンジしつつ)常にオリジナル仕様のままプレスされており、いわゆる『ヒット・シングル集』とか『ベスト・アルバム』といった内容のLPがリリースされるのは解散後、数年を経てからのことだ。
(逆に、旧盤を含めたタイガースのオリジナル・レコード自体が相当に売れていたのだから、あらためてベスト盤等を発売する必要は無かったという指摘も出来ると思うが、それでもメガ・ヒットを連発する最近のアーティストがベスト盤も乱発する事態を考えるに、出せば売れなら何でもリリースするというのが資本の絶対的論理だろう)

もっとも、4曲入りEPやLP『世界はボクらを待っている』、また後にリリースされるLP『ザ・タイガース・アゲイン』は既発売音源の再収録盤であるが、むしろEPは、シングルを発売当時に買い逃した人やコスト・パフォーマンス的に高価で手が出なかった人に向けての簡易サービス盤とも考えられる(当時、レコードは「高級品」だったのです)。
また『世界はボクらを待っている』はパッケージの豪華さ(3D写真も付いているし)や、サントラ盤と謳っているようにセリフも散りばめられると共に、映画っぽく一部リミックスもされた内容だったので、ファンもダブリ音源を買わされるという意識は さほど無かったはずだ(今のようにビデオ等がまったく一般化していない時代なので、映画鑑賞の記念アイテムとしての効用も大いにあっただろう)。
それに較べると『アゲイン』はシンプルなベスト盤仕様だが、後期のシングル曲だけに限られた内容で他のLPとの曲のダブリは無く、またポスターも5枚付いている等、やはりファン・サービス盤としての配慮の跡は見られたと思う。
(こうしてみると、タイガースのファーストLPが、シングル曲+カヴァーという ありふれたパッケージでは発売されなかったことも、こうしたポリシーが先にあっての結果と思えてくる ファーストLPについての考察は [欄外コラム(5)] 参照/今のページにはブラウザー自体の「戻る」ボタンで

さて、このようにレコード・リリースの基本的方針(が、あったはずなのだが)を検討してみると、タイガースのシングル15枚の内で、例外的なリリースは次の3枚となるだろう。

シングル「廃虚の鳩」 1)この前のシングル「廃虚の鳩/光ある世界」は、2曲共アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』のために作られた曲のはずで、結果的にはLPからの先行シングル・カットとなっていたが、こうした形でのシングル・リリースは、タイガースとしては初めてのケースだった。
(それ以前に、例えばシングル「銀河のロマンス/花の首飾り」の2曲は発売から約1か月でLP『世界はボクらを待っている』に収録されたとはいえ、それは「廃虚の鳩」の先行シングル・カットとは意味も性格も異なるものである)

2)既発売LPからのシングル・カットとしては「青い鳥」のみ。
(もっとも、シングル「青い鳥」は1968年12月1日発売と統一されているが、アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』の発売日に関しては、11月25日の他に12月5日という資料もあるので、後者だとしたら これも厳密には先行シングル・カットと言うべきなのかもしれない。 とはいえ、いずれにしてもほとんど同時の発売であったことは間違いなく、このように同時期に同じ曲の発売が重なるケースということこそが重要なポイントなのです。 また、シングル用の音源はLPとは異なるのだが、その点は後述

3)ラスト・シングル「誓いの明日/出発のほかに何がある」も、AB面2曲共にアルバム『自由と憧れと友情』からの先行(または同時期の)シングル・カットだった。このページの最初に戻る
(もっとも、同曲はタイガース解散が決まった後の、いわば事後処理的とも言えるリリースなので、それまでと同列には語れないと思うが)
なお最初に触れたように、こうしたファンの立場に立った(と思える)レコード・リリースは、かのビートルズこそが心掛けたものであるが、それについて多少解説を。
よく見ると、ご丁寧にもバラバラの人形の他に肉片も散らばっているではありませんか
印象的ではあるが、うるさいジャケット・デザイン


初期〜中期ビートルズの本国英国でのオリジナルLPは基本的に14曲入り。
先に(または同時に)発売されたシングル曲がLPに収録されることはあったが、既発売LPからのシングル・カットは一切せず、そうした時のシングル用には別の新曲が(AB面分の)2曲用意された(ただし、1種類を除いて4曲入りEPは既発売音源収録盤だったし、『オールディーズ』というベスト盤もリリースされはしたが)。

一方、音楽面でも世界一の強大国だった米国では、LPには11曲程度しか収録せず、その余った分と英国ではシングルのみの発売だった曲等を集めて、独自のアルバムを何枚も製作したのだ。 上げ底と言うか水増しと言うか、もちろんアルバムとしてのコンセプトなどはお構いなしだった(ま、その当時は後年のようなトータル・コンセプトがあった訳ではないにしても)。

その状況は1966年のLP『リヴォルヴァー』まで続いたが、それに表層的に抗議したのが、米国のみの編集盤LP『イエスタディ・アンド・トゥデイ』の初版のいわゆるブッチャー・カヴァー(ビートルズの面々が肉屋さんの白衣を着てバラバラの人形と笑っている写真をフィーチャーしたもの、いったんは販売されたが直ちに回収、現在はすごく高価/右上の写真)であり、内容的に対抗(苦肉の策?)したのが、その次のアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(ほぼ曲間がつながっているのでバラバラに編集できない/実際、このLPからは英国とほとんど同内容でリリースされることになった/右下の写真)と言われる。
(だとしたら、ロック・アルバムのターニング・ポイントになった『サージェント・ペパーズ』は、それまでの米国レコード会社の悪弊が生み出したとも言えるのは皮肉でありますね)

ちなみに、日本でのビートルズのリリース状況に関して言えば、LPでは日本独自の企画盤も数枚リリースされたが、内容的には米国のような水増しアルバムではなかった。
とはいえ、シングル・カットは米国以上に し放題で、例えば 英国盤『ビートルズ・フォー・セール』と同内容の14曲入りLPからは、5枚10曲分がシングルでもリリースされたものだ(もちろん英国では、ここからのシングル・カットは1枚も無し)。
さて前述の、基本的方針から逸脱したと言えるタイガースのシングル3枚の中で、とりわけ「青い鳥」はタイガースで初めての(そして、ほぼ唯一の)LPからのシングル・カットという形のリリースであり、やけに目立つのである。 しかも それは、既に先行シングルとして「廃虚の鳩/光ある世界」がリリースされていたアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』からの2枚目のシングルであり、さらにタイガースらしくないことに思える。
(なお、このシングル・ヴァージョンの「青い鳥」はアルバムに収録された音源とは別に新たに録音されたものだが、それはLPもシングルも買った人にダブった音源を与えたくないというポリシーゆえではなく、単にアルバム版での沢田研二と森本太郎のツイン・ヴォーカルを、ほとんど沢田のリード・ヴォーカルの形に変更するためのものであったはず)

しかも、この時期には、次のシングル用と思われる新曲が3曲レコーディングされているのだ。
それは「ジンジン・バンバン」と「涙のシャポー」「傷だらけの心」。 候補3曲というのは、今までと同じシングル制作時のパターンである。
ところが、同時期には「青い鳥」の再録音もあり、また「730日目の朝」もリミックスされているという訳で、これは実に不可解なことではないだろうか。

結果としては、これら5曲の中から、A面「青い鳥」、B面「ジンジン・バンバン」のカップリングでシングルがリリースされることになったのだが、それに至るまでには、おそらく関係者間で かなりの議論があったに違いない。このページの最初に戻る
さらに、それはまた、この年の5月頃からタイガースを辞めることを口にしていたという加橋かつみが実際に脱退するに至る、大きな、ないしは決定的な、もしくはダメ押しの要因にもなったのかもしれないのだが…。
では、どういった経緯があったのか、以下は例によって あくまで筆者の推察ですので、念のため。

まず整理すると、この時期の録音音源としては以下の5曲 6ヴァージョンがある(いずれも今ではCDで聴くことが出来る)。
なお、今までのシングルの録音時期と発売日は2か月弱の間隔なので、(実際の結果のように)12月初めのシングル・リリース予定で進行していたはずだ。

録音年月日 タイトル 作詩・作曲者(*のクレジットは公式にはされていない)
1968年10月 3日 涙のシャポー(録音時のタイトル「涙とシャッポ」) *作詩=橋本淳/作曲=すぎやまこういち(推定)
10月 3日 傷だらけの心 *作詩=山上路夫(なかにし礼の可能性も)/作曲=村井邦彦(推定)
10月14日 ジンジン・バンバン(録音時のタイトル「僕のアイドル」のはず) 作詩=橋本淳/作曲=すぎやまこういち
10月16日 涙のシャポー再録音/ポリドール録音日誌での表記は「涙のシャポ」) *作詩=橋本淳/作曲=すぎやまこういち(推定)
10月16日 青い鳥再録音/ポリドール録音日誌での表記は「青いとり」) 作詩・作曲=森本太郎
(この同時期) 730日目の朝(再録音ではなく、既存録音のリミックス作業) 作詩・作曲=加橋かつみ

おそらく作家サイド的には、橋本淳+すぎやまこういちコンビと山上路夫(なかにし礼、かもしれない)+村井邦彦コンビで競作するが、前シングル「廃虚の鳩」では新参の山上+村井コンビにA面を譲ったので、今回こそはゴールデン・コンビの橋本+すぎやまがA面復帰というのは、(一応)暗黙の了解事項。
また、タイガースのそれまでのシングルはバラード系とアップテンポの曲が交互にリリースされて来たので、アップテンポ・ナンバーの順番なのだが、格調高いLP『ヒューマン・ルネッサンス』のイメージとの相乗効果を狙い、今回もバラード系とする。 ただし、シングルB面はA面とは対照的な曲を配置することは今まで通り。 もっとも、リード・ヴォーカルは両面共、基本的に沢田研二が担当し、フロントマンであるジュリーの存在感をあらためて呈示する(LPならともかく、シングルはジュリー!って誰かが言ったよね、きっと)。

こうして、最初に録音された通り、A面「涙のシャポー」+B面「傷だらけの心」で、2組の作家が分け合うというのが当初の予定だったのではないかと思う。
しかし「傷だらけの心」(すぎやま作曲とはどうしても思えない曲調)の仕上がりはタイガースのイメージに合わなかったので、すぎやま作曲の「ジンジン・バンバン」もB面候補として追加録音される。
従来ならば、B面について この2作家間の調整を取るだけで決まったはずなのだが、おそらく(発売はまだ先だったが)LP『ヒューマン・ルネッサンス』を創り上げて自信を持ったタイガースのメンバー側から、それまではあり得なかった、会社や作家のそうした既定路線に対する反撥が出たのだと思えてならない。
特に「涙のシャポー」はデビュー曲「僕のマリー」や「モナリザの微笑」路線の楽曲で、タイガースの従来のイメージを崩さない良く出来た作品だったが、だからこそメンバーが嫌がった可能性は高い(いつまで同じようなことをやらせるんだ!ってね)。

とりわけ、曲が書けないとバッシングされ続けたメンバーが『ヒューマン・ルネッサンス』用に作詩・作曲した「730日目の朝」と「青い鳥」で一挙に回復した自負心には大きなものがあり、LP収録に留まらず、これをシングルとして独り立ちさせてアピールしたいということが、この時期にはメンバー側から熱烈に主張されたのではないだろうか(その中心人物は、やはり加橋かつみだった気がするが)。
LP『ヒューマン・ルネッサンス』の項目で言及したように([欄外コラム(10)] 参照/今のページにはブラウザー自体の「戻る」ボタンで)、このLP制作を通して、作家とタイガースは(特にメンバー側にとっては)先生から曲を戴いて唄うという上下関係ではなく、対等な関係での共闘というつもりだったはずであるし、タイガース・メンバーの音楽的意識も大いに高められていたに違いない。

今や、会社側もそうした意見を黙殺することは出来ず、「青い鳥」「730日目の朝」というメンバー自作カップリングでのシングル・カットも考え(むしろ、それは会社の勇み足だった気もするが)、「730日目の朝」のシングル用リミックスを試した上で、やはり同曲はLPの中でこその曲であると判断。
同時に、クラシック調とはいえ、確かに歌謡曲っぽいとも思える「涙のシャポー」のアレンジを 、よりクラシカルな『ヒューマン・ルネッサンス』風のアレンジに変更すること、および「青い鳥」のシングル用(ジュリーをメインにする)再録音のアレンジを、すぎやまに依頼。
この時点では、すぎやまサイドとメンバー側双方の主張の折衷案として、すぎやまに対してはA面「涙のシャポー」+B面「青い鳥」という形が示されたと思われる(自作曲がB面では再アレンジなんかするもんか、ですよね)。

問題の?シングル「青い鳥」が、しかし、すべてが録音された後で、「青い鳥」優先論が(すぎやまを除く)関係者間で大勢を占めることになったのだろう。
その最も大きな要因は、やはりメンバーが作った曲ということだったと思われる。 それこそは、天下無敵のタイガースに欠けていた致命的なポイントだったのだから。
そしてB面に「涙のシャポー」をという案はあったのだろうが、それはすぎやまが蹴ったと思われる。 2回までもアレンジした曲だからこそ、B面曲では納得できないという自負心(と意地)だったのだろうが、会社側はB面を「730日目の朝」または「傷だらけの心」にして、すぎやまの曲が入らないシングルにすることだけは避けたく、「ジンジン・バンバン」をB面に収録することにする。
これだと、A面バラード、B面アップテンポ曲という今まで同様の対照的なカップリングにもなると同時に、同時期に発売されるLP『ヒューマン・ルネッサンス』とはA面曲は別の録音であるし、このページの最初に戻るLPには収録されていない曲がB面に入ることになり、単なる(手を抜いたように見える)シングル・カットでは無くなる等々、結果論としても、まずまずの形に落ち着いたと思えるではありませんか。
そして実際、LP『ヒューマン・ルネッサンス』は高い評価を受けると共に、シングル「青い鳥」もヒット・チャート上位にランクイン、それまでのタイガースの(良くない)イメージはすべて払拭されるような展開を示す結果となった。
これでタイガースは鬼に金棒と誰もが思ったはずだが、おそらく、このシングル曲決定の経緯が大きな原因となって、メンバーの加橋かつみが、そして作家の橋本淳のみならず、すぎやまこういちもタイガースから離れて行くことになったのだと思われる。

『ヒューマン・ルネッサンス』制作段階でもまるで出番の無かった橋本はもちろんのこと、すぎやまも、自分が心血注いで大きく育てた(はずの)タイガースのシングルA面を「シー・シー・シー」「廃虚の鳩」「青い鳥」と3作続けて外される結果になったことで、さすがに(タイガース・プロジェクトには)もう自分は参加しないと固く心に決めたのに違いない(ま、数か月後の明治製菓のキャンペーンでは「夢のファンタジア」を作曲しているけれど、その頃にはタイガースの音楽監督の座には村井邦彦がしっかり坐っており、同曲のアレンジも村井が担当。 また、同曲は正規にタイガースのシングルとして発売されるという話が流れたこともあったというが、…その可能性は低いと思われる)。
会社側から、次のシングルは「涙のシャポー」で行きますからというような懐柔案が出た可能性もあるとは思うが、もちろん受けるわけはなく、そうしたことが原因で以前の「南の島のカーニバル」と同じく、今も同曲の作家名クレジットは空白になっているのかもしれない。

その後、井上晋介さんより、この「涙のシャポー」の再録音についての貴重な情報が寄せられましたので、追記します(2002年12月9日)。
城みちるシングル「星空への誓い」/これはタイガース・ファンも聴くべし!実は筆者は全然知らなかったのですが、1974年8月発売の城みちるのシングル「星空への誓い」(右の写真)のB面に収録された「緑の館」がそれとのことですので、さっそく聴いてみたところ、間違いなく同曲でした!
後で当てはめられたはずの詩は有馬三恵子による別のものですが、編曲もすぎやまこういちで、何も知らずに聴いていれば隠れたB面の傑作と思えたことでしょう。 なお、A面も同じコンビの作品ですが、こちらは派手な西城秀樹調(ちなみに、秀樹は同月に「傷だらけのローラ」をリリースしてチャート2位の大ヒット。 しかし、当時の秀樹が「星空への誓い」、または「緑の館」を唄っていれば、これも同様の大ヒットになったに違いありませんね)。
井上さんも、すぎやまの同曲へのこだわりとB面収録という現実に触れられていましたが、確かに同曲は「悲劇の(名)曲」という運命だった気がしてきます。
が、それよりも何よりも重要なのは、「涙のシャポー」はすぎやまこういち作曲(のはず)として今まで論考してきたのですが、その通りだったということが、ここに明らかになったことで、そうならばやはり上記のようなタイガースでの諸々の経緯も、実にあり得たことではないかと思われるのですが…。
そして、加橋かつみである。
脱退に至る原因は、単に自作の「730日目の朝」がシングル候補から外され、代わりに同じくメンバーの森本太郎作「青い鳥」がシングルとなってヒットしたから面白くないというような自己中心のものとはまったく違うだろう。 前でもちょっと触れたが、むしろ「青い鳥」のシングル化を最も推したのは加橋だったかもしれないと思う。
それよりも何よりも、アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』で芸術的と言ってもいい程の多大な成果を上げたタイガースなのに、その上に立って次の音楽的展開が成される方向には話が進まない会社側への苛立ちと幻滅が大きかったのではないだろうか。 いや、それは「絶望感」とまで言ってもいいのかもしれない。

例えば、「涙のシャポー」のような従来と何も変わらないようなイメージの曲が、ベルトコンベアに乗ったように作られて次のシングルになりかけたり、せっかくメンバーが自作した「青い鳥」もシングル用には作者の森本太郎を目立たなくさせ、ジュリーを前面に出して作り直される(加橋は「改悪」と思っただろう)。 やはり、タイガースはジュリー+バックバンドとしか会社は考えていないんじゃないか。
(逆に沢田研二も「青い鳥」の再録音については抵抗感が強かったと述懐しているが、後に沢田が作曲を始めることになるのも、同僚が作った歌を奪ったような形になった「青い鳥」が実は決定的なキッカケだったのかも)

さらに、メンバー自作の「青い鳥」はそれまでのシングルと同等にヒットし、タイガースの作曲能力が世の中で認められた(と言ってもいい)にもかかわらず、次のシングルはメンバー作ではなく、村井邦彦作曲の「美しき愛の掟」「風は知らない」に決まってしまう…。
(加橋が失踪という直接行動に出る1969年3月5日のちょうど1か月前の2月5日にタイガースは3曲を録音したとの記録があるが、「美しき愛の掟」以外はタイトルの記述が無かった。 その内の1曲はB面に収録された「風は知らない」なのだろうが、もう1曲が何だったのかは明らかではない。 ひょっとすると、その1曲は前シングル「青い鳥」に続くはずのメンバー自作曲であったが、結果ボツにされ、それもまた加橋脱退の要因の1つになったという可能性も…ある?)

加橋かつみ他、各メンバーの存在感を示したアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』だったが…加橋としては『ヒューマン・ルネッサンス』路線こそが自身およびタイガースが進むべき唯一の道と考えたはずだが、会社側は必ずしもそうではなく、確かに1つの大きなプロジェクトではあったにしても予算は掛かり過ぎたし、(そこそこに良い内容を伴なった)売れるレコードはもっと手っ取り早く作れるはずというような反省点と捉えたのかもしれない。
(とはいえ、加橋がレコーディングを放棄することになった次のアルバムにも「坊や、祈っておくれ」のようなメンバー自作曲が含まれる予定にもかかわらず、それは『ヒューマン・ルネッサンス』とは違うものになりそうだったのだろうか)

とにかく、それまでは操り人形のように従順だった(と思われる)タイガースのメンバーの中で、この時点において最も自意識に目覚めていたのは加橋であったのだろうが、それは一旦気付いてしまうと自分の人生そのもののあり方にもかかわる重大で根本的なことだったに違いない。

また、芸能界の外に目を向けるならば、シングル「廃虚の鳩」発売の頃から『ヒューマン・ルネッサンス』発売を経て新しい年に至るこの時期には、いわゆる学生運動が盛り上がっており、その象徴的な事件として挙げられる1968年10月21日の東京・新宿駅の騒乱や1969年1月18日の東京大学・安田講堂に篭城した学生と機動隊との一大攻防戦(結果、同年の東大入試は中止されることにもなった)において、自分と同年代の若者が大いなる意識を持って既成の権力に立ち向かっている劇的な光景に、加橋こそは相当敏感に反応していたとも思われる。 世の中が急激に変わりつつある今、いつまでも会社の言うがままにリアリティの欠如した星の王子様なんか演じていていいのだろうか…、と。
(ちなみに、そうした学生運動はこの時点では若者や識者には支持されていたが、その後の1972年2月19日に発生した連合赤軍の浅間山荘事件と、その結果、仲間同士の大量リンチ殺人が明るみに出たことより、それまでの支持層からも見離され、決定的に終焉することになるのだが)

また、加橋は天才肌の芸術家にありがちな、何かを達成するまでは粘りに粘るが、その後では直ぐに飽きて投げ出してしまうようなタイプであったようだし、さらに、アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』で始まった村井邦彦という新しい作家との付き合いも、加橋に大きな影響を与えただろう。 その後、ユーミンからYMOまで世に出るキッカケを作ったと言ってもいい村井は、当時すでにGS時代の先の音楽も見据えていたはずだ。 そして加橋の声質やオシャレなセンスも含めた音楽的指向には、かなり注目していたと思う。 いつまでもGSじゃないよ、というような会話が、ひんぱんに交されたのではないだろうか。
(もっとも、村井は加橋脱退後のタイガースには、すぎやまに代わって深く関係することになり、沢田研二の初ソロ・アルバムの全曲を作曲したりもする。 とはいえ、独立した加橋のソロ・レコードにも、当然ながら大いに関係しているのである)

さらには、村井に限らず、加橋が当時親しく付き合っていたはずの、いわゆる「キャンティ」人脈の影響も多大であったろう。 有名なレストラン「キャンティ」の川添浩史オーナーや梶子夫人(タイガースの衣裳も担当したブティック「ベビー・ドール」のデザイナーでもあった)の元に集う(広い意味での)文化人達との交流は非常に刺激的だったはずだ。
そして1969年2月12日、その「キャンティ」人脈の1人であるレーサー・福澤幸雄が亡くなる事故が起きるが、3歳ほど年上の25歳の若者の突然の死もまた、この時期の加橋に大きな何かを感じさせたに違いない。

一方、渡辺プロ側としては、スケジュール通りに仕事をこなしていくという意識こそがプロとしての必要十分条件と考えていたはず、と言えば聞こえはいいが、ま、単純に言うことを聞かん奴は困りもの、と思っていただろう(副社長で社長夫人の渡辺美佐が、デビュー前のゴールデン・カップスに大いに注目しながらも、扱いにくそうなタイプのメンバーだから手を引いたという逸話もあることだし)。
とにかく、この1968年は、タイガースにとって 「君だけに愛を」で突出してブレイクして始まった年であったが、初のオリジナル・アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』と初のメンバー自作曲「青い鳥」のヒットで締め括るという最高の年になり、タイガースが牽引するGS時代も永遠に続くかと思われたものだ。 が、実はこの年こそが、タイガースおよびGSのピークの年だったのである。
翌1969年になると、GSムーヴメントは急速に退潮して行く…。 そのキッカケになったと言うべきか、はたまた加橋の鋭いセンスが時代の先を捉えていたと言った方が的確なのかはともかく、その加橋のタイガース脱退とタイガースのメンバー・チェンジについては、さらに後で考えてみたい。([欄外コラム(13)] 参照/今のページにはブラウザー自体の「戻る」ボタンで
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